2005年10月13日
『罪と罰』
(ただし、私が読んでいるのは新潮社・米川正夫訳版)
言わずとしれたドストエフスキーの代表作。パートナーの蔵書古本なので、上巻が現代仮名遣い、下巻が旧仮名遣いと変則的になってる。
ペテルブルグに住む主人公ラスコーリニコフは、自身の倫理のもとに金貸しのあこぎな老婆を斧で殺害する。鋭敏な頭脳と繊細な精神を合わせ持つ彼は、それを誰かに打ち開けたいと強く願望するが、誰もが彼を狂人扱いし、彼の陰鬱とした苦悩はますます深まる。縁あって知りあった売春婦ソーニャの精神の気高さに打たれた彼は、「良心」を手に入れ、罪に対する罰を受けることを甘受する。
――というのがまぁ一般的な書評で出てくる粗筋ではないかと。でも、私が一言で本書をまとめるなら、
「全員がクレイジー」な世界。
狂人ラスコーリニコフを触媒として、彼と関わる誰もが内なる狂気を発露する。いや、最初から皆狂っていたのかもしれない。としたら、ラスコーリニコフは狂人なのだろうか。狂気とは単に相対的なものではないだろうか。日常の危ういバランスに老婆殺害事件というほんの少しの重りが加わることで、このカタストロフィを生むことになったのではないだろうか。
田舎から出てきた母親プリヘーリヤも妹ドゥーニャも、友人ラズーミヒンも医者ゾシーモフも、ラスコーリニコフに嫌疑を持つ検事ポルフィーリイも、聖なる売春婦ソーニャもその母親カチェリーナも、ラスコーリニコフにドゥーニャとの縁談を破壊されたと恨むルージンも、ドゥーニャを追いかけるスヴィドリガイロフも、皆それぞれ程度の差こそあれ狂気を抱えている。そして、金や死といったきっかけで狂気が発露することで、逆に人間の本質が浮かび上がってくる。
中でも特段のクライマックスは、マルメラードフの法事であろう(老婆殺害は実際どうでもいいシーンではないだろうか?)。未亡人となった肺病病みのカチェリーナは、大家アマリヤに退去を宣告されて血を吐きながらこう訴える。
「神さま!」と不意に彼女は眼を輝かしながら叫んだ。「一軆この世に正義といふものはないのでございますか!わたしたち身なし兒を護らないで、あなたは誰をお守りになるのでございます?ああさうだ、見てみよう?屹度この世には審きも眞もあるに違ひない、わたしはそれを搜し出して見せる!罰あたりの下司女め、今すぐだ、待つているがいい!ポーレチカ、この子たちと一緒に殘つておくれ、わたしはすぐ歸つて來るからね。よしんば家の外でもいいから、待つておいで!さあ、見てみよう、この世に眞があるかどうか?」
――これはすごい。 哀れにして傲慢、絶望にして希望に満ち、はかなく力強い。なにより旧仮名遣いがこれほど破壊的威力を発揮するとは。
ドストエフスキーはダラダラした文を書くことで有名らしく、確かに本書も冗長に過ぎる部分は多い。特に上巻は背景説明的な部分もあり、眠くなる箇所も多いだろう。しかし、そこを乗り越えると(ダラダラのところは読み飛ばしても問題ないような気もする)、名作の名にふさわしい、味わい深い作品が見えてくるはずだ。なお、上述したように、(入手困難かもしれないが)旧仮名遣いで書かれたものをお勧めしたい。
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